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2006/02/09

伊福部昭の思い出

やはり今日はこの話題を書かねば。

大学オケを出て79年の12月に新響に入団した。本当はその月にあったマーラー第5番の演奏会(新響が初めて山田一雄と組んでマーラーチクルスを始めた第1弾)から出たかったのだけれど、タイミング遅くその次のコンサートからということになった。

当時の新響の常任は芥川也寸志。数年前に芥川さんと新響は邦人作品展の功績でサントリー賞を受賞してから、年4回ある定期のうち1回は日本の作品でという企画だった。80年4月の第87回定期に芥川さんは満を持して芸大時代の恩師伊福部昭の個展を開くことを計画、オーケストラとマリムバの為のラウダ・コンチェルタータ、ヴァイオリン協奏曲第2番、そしてシンフォニア・タプカーラという意欲的なプログラムが組まれた。

トランペットパートはその回に限って首席奏者が都合によりお休みで、半年前に入団してたK村、入団したての僕(N村)、そして助っ人の I 村の3人でやりくりした。みんな大学は違うものの同学年でラッパの3村と呼ばれていた。なにしろ3曲ともハードな曲なうえに3管編成である。つまり出ずっぱりということだ。トップは3人で持ち回りにした。僕はタプカーラのトップを任された。

練習が始まって、その大胆な作曲技法と壮大な音楽に度肝を抜かれた。執拗なオスティナート、荒削りなリズム。それまでベートーヴェンやブラームスなど西洋古典しか知らない僕には未知の世界ながら、練習を繰り返していくうちに(アイヌが源ではあるものの)日本の音楽を演奏する楽しさ、違和感のなさがすごく新鮮でうれしかった。

それに加えて練習に時間の都合をつけては作曲家ご自身が練習に頻繁に足を運んでくださり、指揮者の隣におすわりになって、指揮者から相談を受けると「ここはこうしてください」「そこはもっとこういうふうに」あるいは「それじゃこう変えてみましょう」などと共同作業で曲を作って行く贅沢も味わえたのだった。伊福部さんは当時まだ60代なかば、いつもストライプのシャツに蝶ネクタイというダンディでおしゃれなたたずまいだったように記憶している。自分の曲が愛弟子の棒で演奏されるのを心底喜んでおられるようだった。

タプカーラはしんどかった。フォルテでハイノートがビンビンでてくる。でも若さと度胸で乗り切ったような気がする。これが僕の新響デビュー曲。改訂版初演の栄に浴したことになる。

演奏会の打ち上げの上野のトンカツ屋の2階でも伊福部先生はいつものお姿だった。みんなから「首席が欠席で大変だったのに良く頑張ったね」と褒められたけど、内心「なーに首席がいなくたって全然平気さ」と生意気かましてたように思う。

以来新響では幾度となくこの曲を演奏してきた。指揮も芥川さんの他に石井眞木、原田幸一郎など(ヤマカズでやったっけ?)さまざまな人と共演している。そのほとんどの演奏会に伊福部先生はお見えになったはずである。

新響に入りたてで意欲に燃えていた自分と、伊福部ー芥川の師弟愛を目の当たりにできたこと、曲そのものの魅力などからシンフォニア・タプカーラとその作曲者は僕にとって特別に思い入れの深い大事な宝となっている。

ご冥福をお祈りします。

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