オフビートと3Dの世界
きのう思ったこと。
西荻の本郷教会に行く途中、磯山雅の「J.S.バッハ」(講談社新書)を読み返していたら、バッハの音楽とジャズの親近性ということにふれて次のような文章があった。
「リズム、メロディ、ハーモニーを音楽の3要素という。リズムは音楽の時間を構成するもの、ハーモニーは音楽の空間を構成するもの、メロディは両者の接点に生まれる、音楽の顔のごときものである。(中略)天才の音楽は3要素のいずれもが卓越しているものであるが、あえていえば、バッハの音楽でとくに際立っているのは、リズムだろう。」
バッハの音楽の神髄はリズムにあり。確かに前にも書いたけど、オフビートが一番活きる作曲家の一人がバッハであるのは間違いのないところだろう。実は種明かしをすると、僕らの仲間内ではオフビートを大事にすることがお約束になっている。これをおろそかにすると音楽が死んでしまうからだ。
昨日、本番前にこの文章を読みつつ、これから演奏するカンタータの103番の自分の曲を思い浮かべた。4分の4拍子の曲でアウフタクト(音楽用語、ドイツ語でオフビートの意)で始まる。曲の冒頭のみならず、全曲にわたって、練習する時も常にオフビートをすごく意識してさらう、というかその方が自然で、かつノリのいい演奏ができる。
では仮に、この曲を半拍ずらしてオフビートが拍子の頭に来るように楽譜を書き直してみたと仮定してみよう。そしてその楽譜を見つつ「オンビートで」演奏しても、多分さっきと同じ効果は得られないと思う。
というのはつまり、最初の譜面ではオンビートも意識しつつオフビートを大事にしているのに対して、書き換えた譜面ではオンビート(もとのオフビート)だけしか気にせず、元のオンの部分がどこかにいってしまうからである。
例えて言えば、オンビートだけ意識して演奏するのが左目だけで物を見ている世界だとすると、右目を開ける(つまりオフビートを意識する)と見え方に立体感が出てくるようなものだといえば分かりがいいだろうか。よくあるクラシックの演奏は左目だけのものが多く、ジャズやポップスは右目重視だ(ドラムスがどこにアクセント置いて叩いているかを考えれば一目瞭然)。と考えると一般的にクラシックがなぜ一般受けしないか(つまらないか)の説明が、リズムの面からも合理的になされるのではないだろうか。 もちろんリズムにかかわる問題はこれだけではないが。
ともあれ、右目(オフビート)が大事だからといって、右目だけで見るということは音楽の場合不自然なのでできない。それだけ譜面上の拍節の拘束力が強いということだと思う。オンあってのオフという訳だ。けれども、先の書き換えた譜面では、書き換えられたが故に(不自然だけど)左目だけで演奏することが可能になるし、もしそうやって演奏したとしたら全く落ち着きのない音楽になってしまうと思われる。
さらに話をすすめて、左目だけで演奏している人と右目重視で演奏している人が交じってアンサンブルをやるとどうなるかというと、それはあたかも3Dの元絵を専用の眼鏡を付けないで見ている様な感じになる。つまりリズムがボケボケになっちゃうのだ。ま、3Dの元絵ほどひどくはないにせよ、「なんか変だな〜、リズム合わないよね」となってお互いに落ち着かない。けれどもそれぞれが歩み寄るということは(ものをどうやって見るかという根源的な問題ゆえ)ほとんどの場合不可能だ。かくして両者とも不満を溜めつつ、不幸な音楽が出来上がることとなる。
これ、かなり重大な問題で、まだ解決策は見つかっていない。一緒にやらなきゃいいだけの話なんだけど、世の中そうもいかないしね。
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