そこに音楽はあるの?
音楽を聴いての感動。
自分が記憶している一番初めのものは、高校1年の時に聴いた沖縄・真和志中学の演奏するショスタコーヴィッチ「祝典序曲」。吹奏楽コンクール九州大会での演奏だったけど、本当に背筋がゾクゾクとするような名演奏で、聴いたあとしばらく興奮して口もきけなかった。腕も達者(中学生なのにね)だし、なによりクライマックスに持って行く音楽の作り方が素晴らしかったんだと思う。多分、今聴いたら全然琴線に響かないのかもしれないが、とにかくその時は自分にとってはすごい体験だった。
当時は録音するといえばオープンリールのレコーダー(デンスケ、しかもモノラル)しかなかったのだが、それで録音していたので、後でプレイバックを友人と一緒に聴いていたときにもやはりライヴと同じようにゾクゾクして感動した。
残念ながらそのときのテープはもう残っていないし、真和志中学は響南中に破れて全国大会に行けなかったからオフィシャルな録音も残っていない。余談だがその年の響南中の自由曲、ホルストの木星はレコードになっているから今でも聴くことができる。その時もそう思ったし、今聴いても同じなんだが、響南中の演奏は技術的には上手いけど、感動を与えるようなものではなかった。少なくとも僕にとっては真和志中のは特別な演奏だったと断言出来る。
そんな僕の個人的体験はまあどうでもいいんだけど、ともかくそれ以来、音楽を聴いて感動するという体験をいろいろとしてきたわけで。それはヤマカズの未完成だったり、テンシュテットのマーラーだったり、フィリップジョーンズだったりしたのだが、基本的には人がライヴで演奏している時間・空間を共体験することで得られてきたものだ。生身の人間がその場で音楽を創っている、その行為と創造されたものに対して感動するんだなと思っている。だからCDなどにレコーディングされたもので感動することは、自分の場合とても少ない。
では、ライヴのときだけが感動を呼び起こす音楽で、それを録音してパッケージにしたものはもう感動の対象ではないのか?音楽そのものは(再生装置による音質の違いはあれ)何の変わりもないのに。それは違う音楽なんだろうか?真和志中の演奏は貧弱な再生装置でも感動ものだったのに。それは感動の追体験をしたからなんだろうか。
例えばクリフォード・ブラウンが「星に願いを」を目の前で演奏したら、きっと感動すると思う。ひょっとして、そのライヴがCD化されて、それを聴いたとしたらやっぱり感動するんじゃないかな。そのとき音楽を共有したっていう記憶が呼び覚まされるから。
じゃあ、その演奏をまるごとそっくりコピーしてプログラミングさせてトヨタのロボットに吹かせたらどうなんだろうか?ロボットの演奏じゃやっぱり醒めているんだろうか、それとも音楽そのものには感動できるんだろうか?そこには音楽はあるんだろうか?
このページを見たらそんなこんなが訳わかんなくなってきた。
http://techon.nikkeibp.co.jp/members/NEWS/20040311/102382/
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