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2006/08/05

風車を廻す

妻が所属するオーケストラ・ニッポニカのシンボルマークは風車である。これはこのオケにゆかりの故芥川也寸志の言葉からとられているそうだ。ちょっと長くなるけど同オケのホームページから引用すると、

・・・・生前の芥川也寸志はよく、「感動と言うのは精神の風車を廻すことである。たとえば、私たち音楽を愛する者が楽器の技術は拙くとも練習に練習を重ねて、僕等の拙(つたな)い精神の風車を廻す練習をし、ある作品を舞台で演奏すると、その廻る風車の風に吹かれて客席のみなさんの精神の風車も徐々に廻り始める。さび付いた風車も、普段から手入れの行き届いた風車も勢い良く廻り始める。これが感動と言うものだと思う。だから自分の風車をまず廻そう・・・」と話していました。・・・・

これは何もステージ上の演奏に限らないよね。普段の音楽活動、いや生活そのものにもあてはまるかも。まず自分が風車を廻さないとなにごとも始まらない。いや正確には次から次に物事は起こってはいるんだけど、それは自分が風車を廻さない限りあくまでも受動的なものにとどまる。能動的に廻すことが大事だってこと。それは別に常に自分が作った風車じゃなくちゃいけないというわけではなく、人が廻し始めた風車でもそれがいいと思えば一緒に廻せばいいんじゃない、ってことじゃなかろうか。

でも、よく考えてみたらこれはおかしい。だって風車を廻す原動力って風なんだよね。ちょっと話が矛盾する。だから例えば自転車の比喩にすればいいのかな。誰かが自転車をこぎ出さないと何事も進まない。いいなと思ったら一緒に自転車に乗って力強くこぐことが大事。

いやいや、これも変かな。だって自転車だと一緒に乗っている人たちだけが勝手にどっか遠いところへ行ってしまうってことになって感動を伝えるなんてできないもんね。「あれー、あんなとこまで行っちゃったよ、あの人たち」みたいな。しかも「自転車操業」っていう足を動かしつづけてないと倒れちゃうみたいな連想も働くし。

やっぱりここは音楽関係の話らしく、オルガンのふいごに例えてみるのがいいのかな。昔のパイプオルガンは今のように電動ではないので、誰かが演奏する時は裏方としてふいごで空気を送り込むこぎ手(カルカント)を必要としていた。何かを伝える為にはまずふいごを押して音を出してみる。そしてそれに同調するならふいごを押す手伝いをしてより大きな音がみんなに伝わるようにする。こんな感じでしょうか。ま、カルカントじゃシンボルマークにしにくいし、風車の比喩で充分意味するところは通じるからそれはそれでいいか。

話が脱線しすぎた。ともあれ、何が比喩として適切かはともかくとして、自分から廻すことが大事ってことだ。話が急におおざっぱになっちゃうけど、世の中廻す人と廻される人がいるように思う。別に廻されること自体すべて悪いことではないけど、廻される部分では上手に廻されて、そして自分の大事な部分は廻すことも忘れないで、という生き方がいいんじゃないかな。

なんかとりとめのない話になってしまった。

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