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2008年11月

2008/11/24

「ベルリンフィル ー最高のハーモニーを求めて」(ネタばれ注意)

昨日はベルリンフィル、アジアツアーのドキュメント映画を観る。

映画館に行ってみたら知り合いいるかな、と思ったがやはり某オケのオーボエ吹きに会い、並んで観ることに。

現在のベルリンフィルを団員と常任指揮者(サイモン・ラトル)の視点から描いて行く。2005年のツアー(北京、ソウル、上海、香港、台北、東京)のそれぞれの場所でのこまぎれなローカル映像の中にこれもまたこまぎれなインタヴューをはめ込み、団員達の想いや立場、オケ生活、この特別なオケに対する気持ちなどの舞台裏をじわじわと明らかにする。ツアーが進むにつれテーマも移って行く。
現役の団員の話なだけに先の映画(帝国オーケストラ)に比べると一段とリアリティがある。

ラトルはいつの間にかサーの称号がついていたんだね、知らなかった。

ツアーの曲(英雄の生涯、エロイカ、それに現代曲)もインタヴューの構成に合わせるように上手く使われていた。それにしても、あの音が全部リハも含めて全部ライヴっていうのがすごい。(現代曲のリハでのリズムにてこずっているところを除き)常に完璧な音だね。北京到着直後、時差ぼけでの英雄の生涯の出だしの音はなんなんですか、あれは。

台北でのシーンにはちょっとうるうるとしてしまったが、あそこで終わったね、という意見には同感。後で冷静に考えてみると仕組まれていたのかなとも思う。というのも、香港でも野外放映があり、そして台北でも。っていうのは普通やらないよね。あのツアーはドキュメントを撮るよっていうのが先に決まっていて、じゃあ絵になるSomething Special を演出しよう!っていう企みだったのではないかと。どうせやるなら東京でやって欲しかったよね。無料ならファンだって一杯集まるだろうし。あ、広い場所がないのか。

それから、トライアル中の団員達だけじゃなくて、今回のツアーで引退という団員にももっと焦点当てれば違う切り口の描き方も付け加えられただろうにね、ちょっともったいない感じもした。

上映の後、スクリーンにも頻繁に登場したホルンのサラ・ウィルスが舞台挨拶。おいしいおまけ付きだった。

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2008/11/23

昨日の練習で

昨日はクリスマス時に本番があるターフェルムジーク鎌倉の練習。
ラッパの出番の曲は63番と110番の2つ。

さて、楽器の選択だが無難な演奏を目指すのであれば論をまたずにエッガーの4hole にエッガーのSI7 のマウスピースということになる。
だが、最近はぐらついてきた。昨日はそのきっかけが2つ。

1つは
全体練習に先立ってHさんNさんとトランペット3本のパート練習をした際、出ましたよ、Hさんの新兵器、ハイデのナチュラルトランペット。お披露目ということになった。モデルはEheのバロックタイプ。もともとはナチュラルだけど、1つ孔にすることもできる。
ハイデさんのいつもの美しい仕上がり。音程特性とか音色はやっぱり僕のと似ている。Hさんは今回はこれをナチュラルで使いたい意向。うーむ、吹いているところを見るとカッコいいぞ。

2つは
全体練習の始まる前、指揮者の大竹先生が僕に向かって「最近は"これ"がはやっているらしいねえ」と左手は腰当て右手で牛乳瓶ラッパ飲みポーズをした。

これでやりたい気持ちに火がつかない訳がない。
「そうなんですよ、じゃ、今日はそれでやりましょうか」
ということで昨年末にもトライした110番の6曲目はエッガーのナチュラルで演奏。自分としてはまだ11倍音と13倍音の解決していない部分がある。でも特に指揮者からもオケからもクレームはなし。
この曲はこれ(ナチュラル)でいきたい気が再燃して来た。

昨日の選択はこんなだった(練習順)

63番の1曲目と7曲目 ( in C ) エッガー 4 hole
110番の6曲目 ( in D ) エッガー no hole
110番の1曲目 ( in D ) ハイデ 1 hole
110番の7曲目 ( コラール in D ) エッガー 4 hole

3rdのHさんはハイデのno holeで全く問題なかった。

さて、僕の方はさすがに全部ナチュラルというわけにはいかないので、110-6のみエッガーのno holeで、残りはとりあえずハイデを1holeにして演奏しようかなと思っている。マウスピースの選択は頭を悩ますところ。
来週のオケ練習で再確認しよう。

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不自然

株式市場の話。

最近はリスクを避けよう(あるいはリスクがとれない)と市場参加を見合わせるプレーヤーが増えたため、市場の流動性が細ってマーケットの深みがなくなっている。残った一部の人たちは超目先のことしか考えていないか考えられない。
そんな感じの、大きさも小さくなって水位も低くなった池にクジラを放したらどうなるか。結果は見えている。波は高くなりしかもばしゃばしゃと水がはじきとばされるだろう。
今のマーケットがそんな感じだ。

NYが暴落して戻った翌日日経平均が大きく下げるのかなと思いきや、下げるには下げたがいったん底をついたら前場引け前あたりから大引け近くまで棒上げ、引け間際に利食いと思われる売りが入ってちょっとだれて終わり。そんな展開はどうみても巷間言われているように公的な買い支えのように思われる。いわゆるお化粧買いだ。(どうでもいいけど今「おけしょうがい」で変換したら「オケ生涯」と出た)

とあるサイトを見ていたらそんな「公的」はNYにも出張しているとのこと。なるほどね。外国株だっていっぱい持っているし、クロージングに向けて数回まとまった買いを出すのはできない技じゃない。そう思ってみるとNYダウのあのジェットコースターのような下げ上げ(あくまでも上げ下げじゃない!)はすんなりと理解できる。だって最後の1時間でがらっと水準が変わる日がこんなに続いているのだから。

買い玉を出すだけではなくて(それが悪いと言っているわけではないので念のため)、今はしきりと空売り規制を強化しようとしている。売り注文がいけない、売りづらくさせようという魂胆で、なんでもかんでも売りを止めたいらしい。そんなことしたら池の水はなくなってしまって住んでいる生き物は死を待つのみになってしまう。
市場の活性化、買いたくなるような魅力作りこそが大事なんじゃないの?買うのはいいけど買ったものを売るには制限がありますってんじゃ誰も入ってこないよ。

まだまだ暗くなるのかも。

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2008/11/20

素朴な疑問

主に外資系のことなんだけど。

なぜリストラというとすぐレイオフを意味するんだろう?
本来はリストラクチャリング、業務見直しで不要部分や生産性の良くない部分の見直しのはず。それがどうして リストラ=コストカット=人員削減 という一本道しかないのか、疑問だ。

うちの回りの業界、特に投資銀行業界は人口が減っている。じわじわと減っているなあというところに加えてときどきバサッ、バサッていう大胆な話が聞こえてくる。誰しも明日は我が身状態。いつ自分に降り掛かってきても不思議じゃない。「この仕事、今まで5人でやってきたけど、今日から3人でやってもらいます」来月からとか来週からとかいう話じゃない、「今日から」だ。昨日まで一緒に仕事してた仲間はもういないし会えない。あれこれ考える猶予もなく業務は減らず人だけ減らされる。まず物理的に無理だし引き継ぎもなし、去るも地獄だけど残るも地獄。

単純に頭数(英語でもHeadcountという)を減らせば人件費削減、収入は同じなら収益回復、という図式が描かれているけど、同じクオリティの仕事が提供できなかったり残されたメンバーのモチベーションが下がったりという質の劣化の部分は不問に付されている。経営層の法外だったボーナスの返上はもちろんのこと、会社が苦しい時はみんなで頑張ろう的な一律賃金カット、雇用の確保っていう道はないんだろうか。

肩を叩かれる方は「なぜ俺が?」「生活はどうなる?」という面で辛いのは当たり前だけど、肩たたきを指名する方もby orderだから話を断るわけにもいかず、恨みをかうこと承知での苦渋の選択だろう。

最近は右を向いても左を見てもそうしたやるせない話ばかりがころがっている。

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2008/11/19

たくさん

コンサートの関係でいろいろさらう楽器がある。

スライドトランペット (1/8)
コルネット (12/14, 12/23, 1/8, 3/4, 3/6)
ナチュラルトランペット (12/5, 12/27?)
バロックトランペット (12/27, 2/1, 2/5, 4/26)
キイトランペット (5/17)
リコーダー (12/14?, 3/4, 3/6)
アルトサックバット (3/4, 3/6)?

危うくコルノダカッチャ (2/1) もお鉢が回ってくるところだったが、これは回避。ふー。

スタンドの上にもいろんな譜面が。
でも一番大事なのはイメージトレーニングだな。

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2008/11/17

コンサート雑感

土曜日午後は四谷のイグナチオ教会にアントネッロの演奏を聴きに出かけた。
イグナチオは僕の大学指導教官だった田内先生の葬儀が執り行われた場所でもある。そのときは旧聖堂だった。建て換わってからも何度か中に入ったことはあるけど、ちゃんとしたコンサートは初めて。音響という面では申し分ない場所だね。明るいところはリエクサ教会(フィンランド)を、楕円になっているところは同じくヘルシンキのテンペリアウキオ教会を思い起こさせる。

今回は長崎県と上智大学の連携講座の一環で前半が上智の史学科の先生と作家三浦暁子さんとのトークディスカッション、後半がアントネッロによるコンサートという構成だ。コンサートのテーマは「ローマを見た少年 中浦ジュリアン ー天正遣欧使節の音楽ー」というもの。

コンサートの中身については、CDにもなってまとまっているし、今まで折に触れて生で聴いたりしたものや、あるいはコンサートに自分が参加したものもあるし、そもそも大分や東京でのレコーディングにも立ち会ったりしてそれこそ何度も聴かせていただいているから、そのすばらしさや完成度については言うことはないのだけれど、コンサートを聴き進むにつれて二つばかり感じたことがあった。

一つはこのプログラムのテーマである、遣欧使という当時の少年の視点に立っての西洋音楽という切り口。長年アントネッロが追求して来たもろもろのことがそこには凝縮されて詰まっているんだけど(それをここで詳説すると長くなるので省く)、この音楽(というかプログラム)は日本人じゃなきゃ丸ごと味わえないだろうなという確信を持ったということだ。濱田さんがコンサートの中で解説したように、当時セミナリオで西洋音楽を勉強した少年達にとっては、かなりの水準まで自分たちのものにしてしまった西洋音楽と、自分たちのオリジンである日本人としての血(それは民謡だったり)が混然としていたはず。だからローマやスペインでも(向こうの人たちは驚嘆したけど)彼らにとっては音楽自体は慣れ親しんだものだったに違いない。それは言ってみれば現代にヨーロッパの音大へ留学している人たちと音楽面では同じ境遇なのかもしれない。

先日の福岡古楽音楽祭のレセプションでシギスヴァルト・クイケンが「昔はヨーロッパに勉強にくる日本の学生がなぜこんなに我々の音楽を知っているのか、なぜ日本の音楽をやらないのか、不思議だったけど、長年付き合ったり日本に来たりしてみて、そうか、日本のクラシック好きの若者にとってはヨーロッパの人たちと環境が変わらないんだ、いやむしろこちらの方が純粋な形で愛好家が育っているんだと理解しました」という旨のコメントをしていたけれど、それに通じるものがあるんだと思う。
日本人に西洋音楽が分かるか(できるか)とか日本人としてのアイデンティティーはとか、あの高名な指揮者のように大上段で議論するような必要はないんじゃなかろうか。

それで西洋音楽の部分はいいとして、コンサートには少年の日本に対する望郷の念などが挿話のように入る。ここの部分は勉強うんぬんじゃないところ。丸ごと楽しめるのは日本人だから、と先に書いたのはそのためだ。しかも二つの世界を全く切り離して対比するのではなく、似ている部分を取り出してきて愛でる、その姿勢がじわっと感動を呼ぶわけで、そこに聴いていてうるうるしてしまう要素があるんだろう。
ここまで書きながらひょっとしてこれは濱田さんが自身を重ねて追求しているテーマなのかなとも思ってしまった。

さて、長くなったのでもう一つは別の機会にでも書くことにしよう。

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2008/11/15

あたり月

「壊れる日本人 再生編」(柳田邦男)
「さがしもの」(角田光代)

今月の新潮文庫新刊は当たりが多かった。さきの「日日是好日」もそうだし。
ひょっとしていつもそうかもしれないが。たまに本を読むとそう感じるのかもね。

ところで柳田邦男って日航機事故の印象が強くて飛行機事故専門家なのかと思っていたらケータイ文化とか活字離れとかさまざまなことに警鐘を鳴らしているノンフィクション作家なんだね。もとはNHKの記者なんだ、ふーん。
この本の中に本を読むことの大切さ、殊に絵本の可能性とすごさについて触れてあって、なるほどねえ、と感じるところが多かった。あ、奥さんは絵本作家なんだ。自身絵本の翻訳もたくさん手がけているようだ。

角田さんの本は、本にまつわる短編集。安心して読める実力派作家だね。どれも読後感幸せになる話ばかりだけど、中でも最初の「旅する本」とタイトルになっている「さがしもの」が秀逸だった。

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2008/11/14

「迷子の警察音楽隊」

劇場で見損なった映画をDVDで観る。

演奏旅行先のイスラエルで迷子になったエジプトの警察音楽隊(といってもたったの8人だが)の一宿一飯のおはなし。

不思議な魅力をたたえた映画だ。主演のサッソン・ガーベイ(イスラエル人)のたたずまいが良い。その他のキャストも。

予期せぬアラブ人とイスラエル人の交流、しかも言葉は不自由。でも気持ちがちょっとでも通じるとその場の空気がふわっと変わる。そのきっかけは歌だったり、しぐさだったり。

映画に込められたメッセージはまだまだ汲み取れてないんだろうが、分かり易い映画がいいというものでもない。世界各地の映画祭でさまざまな賞をとっているんだね。

原題の The Band's Visit の方がすっきりしていて好きかな。

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2008/11/13

フロンガス消火

そういえば先日のロシア原潜の事故。誤って消火器を作動させたのが原因とか。

今年の夏、会社で借りているコンピュータサーバーのデータセンター(災害などのリスク管理の観点から会社のコンピューターはオフィスとは別のより安全なところに設置している)に見学に行ったときのこと。
センターの案内係の説明、

「万一、火災が起きた時もスプリンクラーなど水で消火作業をするとコンピューターがダメになってしまいますので、この部屋では急速に酸素をなくすことで消火作業を行います」

「酸素が無くなるって、そしたら呼吸は?」

「もちろん呼吸はできず危険ですから、そのときは直ちに退出避難していただきます」

あんときゃそのコンピュータールームの中にいるのがおっかなかったなあ。
みんなでガス室から避難するかのようにこわごわ退出したのだった。

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2008/11/10

「帝国オーケストラ」

今年(昨年?)はベルリンフィル創設125周年とかで、この世界的なスーパーオーケストラを内側から描いた映画が2本封切られている。戦時下のオケを扱ったものがこれ。もう一つはラトルの元での現在のオケ(アジアツアー)を扱ったもの。

まず、映像が貴重だ。戦時中はオケが宣伝大臣ゲッペルスの広告塔として利用されただけに当時の演奏や演奏旅行の映像が豊富に残っている。フルトヴェングラーやチェリビダッケの若い時の指揮姿。ナチの集会(ヒットラーの生誕記念演奏会の割にはいつも当人は不在なのはなぜ?どこかの国みたいですが)でのワーグナーやベートーヴェン。焼け野原になったベルリン市街もすごいね。

ドキュメンタリーは当時団員だった人たちや団員の家族たちの語りでつながれている。基本ドイツ語だからずっとスクリーンを追っかけて行くのはちょっと疲れる。中にアメリカに移住したメンバーの息子さんへのインタヴューになったときは英語だからほっと一息の瞬間だった。

存命の2人の団員の証言もすごい。というか、かなりの高齢(ヴァイオリニストのヴァスティアンは96歳、コンバスのハルトマンは86歳だそうだ)なのにものすごい記憶力だ。人の名前とかも次々出てくるし。どのようにオケの周辺が変化していったか、記憶が全く風化していない。ベルリンフィルと共に育ち、オケ生活一筋だったろうから記憶が強化されているのかもしれない。

面白いかと言われれば?疑問符?のつく映画だけど、今じゃなきゃ残せない記録だなということを痛感した。

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2008/11/09

色違い

大統領選で負けた共和党の敗因の一つに副大統領候補ペイリンがアホだったからというのがあって、ペイリンはアフリカを一つの国と思っていたというのが選挙後の今になってさえしきりに喧伝されている。

一つというのはあまりに無茶な話だけど、アフリカには実に54もの国があるそうだ。改めて世界地図を見てみるといろんなところに知らない国がいっぱいある。

しばらく地図帳を眺めていたが、巻末に 各国の国旗が載っていた。
国旗もそれぞれの国の意匠が凝らしてあって面白い。例えばアフリカのケニアやスワジランドは槍と盾だし、太平洋のマーシャル諸島は「これから日が昇るぞ」という感じの勢いあるデザインで国の特徴を良く表現している。

一番単純なのはベタの緑一色、アフリカのリビアだ。これが棒の先でたなびいていてもとても国旗とは気がつかないほどの謙虚さ。

次に単純なのは横に2分割。赤黒のインドネシア、青黄色のウクライナ、白赤のポーランド、赤白のモナコの4カ国。

一番多いのが3分割。
イタリアやフランスタイプの縦に3等分の国が10ヶ国、
ドイツのように横に3等分の国が13カ国もある。
これらは区別がつかなくて紛らわしいよね。

鷲やライオンなどの込み入った絵が入っているのは見ていて面白いが自分の国の国旗を描かなきゃいけないときには大変だろうなと余計な心配をしてしまう。

ところで日本のそれは誰もが描ける日の丸だが、まったく同じデザインの国が2つもあった。青地に黄色がパラオ、緑地に赤丸がバングラディシュだ。知らなかったなあ。よほど親日の国なんだろうか。

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2008/11/08

異なる心象風景

主に電車で移動する人と車で移動する人とでは地図の捉え方が違うと思う。つまり前者は鉄道の路線に沿って位置関係を把握するのに対し後者は道路に沿っているからだ。例えば高円寺から江古田を例にとると、車派は「あ、環七で1本だからすぐだね」と思うだろうが、これに対して電車派は瞬時に、中央線で新宿→乗り換え山手線池袋→西武線江古田のラインが想起されてしまい、「ひょっとして近いかもしれないけど時間かかって遠そうだな」と思ってしまう。あるいは車で移動した時に「あれ、こんなに近かったのか」と思うだろう。これは地理的に江古田が高円寺の北に位置していると頭で理解している場合であってもそうだ。言ってみれば鉄道路線図に沿って脳内地図が広がっているという感覚だ。

ふと、異なる作曲家のマニフィカト(シュッツ、バッハそしてモンテヴェルディ)を立て続けに聴いて同じことを思った。

自分はこれらの曲に器楽でしか接していないので音楽的要素ばかりが耳に残っていて、この3つを全然別ものとして聴いている。しかしながら、ひょっとして歌の人たちの心象風景は全く違うのではないか?

ミサ曲やマニフィカトなどのラテンを原典とする宗教曲では歌われる歌詞は基本的に全く同一である。つまり同一の歌詞に古来いろんな作曲家がその人なりの音楽をつけたというわけで、
Magnificat anima mea Dominum (私の魂は主をあがめ)に始まって
Et exultavit spiritus meus (私の霊は喜びたたえる)と続き
Gloria Patri et Filio(父と子と精霊に栄光あれ)などなどを挟みながら
Sicut erat in principio (はじめにそうであったように、)で終わる
この一連の歌詞は順番も文言も同じなのだ。

つまり、歌を担当している場合、いやでも同じことを歌う訳で、そうすると歌詞優先で脳内地図ができあがるんだろうか。例えば「バッハのFecit potentiamはわくわくして好きだけど、モンテヴェルディのは歌の部分が地味で面白くない」みたいな感じで。あるいはモンテヴェルディのGloria Patri のソロの感覚を援用してバッハのそれを歌ってみるとか。ああ、今まで考えたこともなかったな、そういうふうに縦横につなげるなんて。

冒頭の例で考えると当然のことながら車で移動する人は電車も利用する訳で、地図情報がより細かくかつ正確にインプットされているに違いない。
ここでの歌い手はおそらく車派、器楽オンリーは電車派と考えると、僕らはその分地図が見えてないわけで、ハンディキャップを負っていると考えた方が良さそうだ。歌詞を覚えて脳内シナプスを増やす必要があるね(だからOPTの練習の時に指揮者に、オケであっても歌詞が頭に入っているのは当たり前だろ、とくどく注意される訳だね)

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2008/11/07

マドゥーフ氏へのインタヴュー(その4)

【指導法について思うこと】

教育者として(バルブトランペットの指導は15才のときから始めた)、私は今まで述べてきたような原則に基づきナチュラルトランペットへの独自の取り組み方を工夫してきた。
ナチュラルはリヨンでもう14年教えている(注:インタヴューの時点は2005年)。最初の数年は試行錯誤しながらだった。同僚や学生達それに学校自体も私のやりたいようにやらせてくれた。初めはなかなか上達に結びつかず、いくつかの試みはうまく実を結ばなかったこともあった。が、同時に私の演奏スキルと教える技術が上達したこともあって、結果として今では学生が基本的なことを学ぶのに短期間ですむようになってきた。

バロックトランペットを孔なしで演奏したいと思う人は、まず良いアンブシュアを持っていることと呼吸法に問題がないことが必須の要件である。

どのような教則本を使うのが良いか?
私はいろんな教則本を柔軟に使い分けている。デュベルネ、それにシュロスベルグ、スタンプやコリンなど。これらは正しい息圧や安定したアンブシュア、どうやって自分の体を共鳴させるかなどを練習するのに役立つ。それに加えて自分なりの話す練習や歌う練習法も加味している。

次にタール教授の教則本にある音程の練習もたくさんこなす。これを自分が開発した第7,11,13,14倍音などの難しい音をとる特別な練習法と組み合わせて使用している。

その後に曲を歌うように演奏するためのアーティキュレーションの練習を行う。ファンティーニやクヴァンツ、アルテンブルグなどの作品が適しているがフランスの狩りのホルンの曲や民謡、ジャズの技法なども取り入れている。

自分が思うに、同じような材料を使っていろんな先生がバロックトランペットを教えているとは思うが、補正孔を使いながらの指導では全く違った結果が得られると思う。それも自分がナチュラルトランペット用の練習法を独自に開発した理由でもある。

【FAQ(よくきかれる質問)】

1)バロックトランペットを始めるには孔があった方がいいですか、それともない方がいいですか?

孔付きの楽器を使った方が早く難しいレパートリーを演奏することが可能だ。だけれども、その場合アーティキュレーションはモダン楽器で演奏するのに近くなる傾向がある。私に言わせると、ピリオド楽器を使いながらなぜあえてピッコロトランペットのような音をめざすのですか?ということになる。

私の意見は従って、孔なし(もしくは第11,13倍音補正のための孔1つ)の楽器がこの楽器を始めるのにベストな選択だと思う。たとえ将来的に3つ孔や4つ孔の楽器で演奏するつもりであっても、こうすることでモダンのアーティキュレーションと息圧の習慣を断ち切ることができるからだ。そしてその後に孔付きの楽器でフィンガリングの練習を1ヶ月かそこらやれば充分だし、またより確実な演奏をすることが可能になる。

もしバロックトランペットを最初に孔なしの楽器で始めたとしたら、演奏のしかたは随分異なってくると思う。というのもそうすればバロックトランペットは決して現代の楽器の祖先(しかも不自由な)ととらえることもなくなってそれそのものの良さが分かるだろうし、その練習で得られるメリットを活かすことができるからだ。

2)孔付きの楽器と孔なしの楽器を両方演奏することは可能ですか?

私はこの質問に答える資格はない、なぜなら前にも述べた通り同時に両方の楽器を練習していた期間はすごく短かったからだ。ただ、バーゼルとリヨンの私の生徒達はたいていどちらのシステムも演奏しているし、それで問題があるようには見えない。

3)3つ孔と4つ孔、どちらのほうが良いシステムだと思いますか?

ご想像がつくとは思うが、個人的にはありのままの楽器が一番と思っている。しかしどちらかのシステムを選ばなければならないとしたら4つ孔の楽器の方がいいだろう。理由は、1つ、2番ヤードを差し替えることでいつでも孔なしの楽器にすることができる。2つ、オリジナルの楽器の形状と同じである。3つ、スライドをつけることが可能である。4つ、2重のクルークをつける(3つ孔)よりも音程の妥協が少なくてすむ。5つ、4つ孔の方が第13倍音をより正しくかつ確実に補正する可能性が高い。

4)どちらも同じマウスピースで吹くことは可能ですか?

もしピリオド楽器にモダンのマウスピースをつけて演奏すればモダンの音に近い響きがするだろう。なぜ大きいマウスピースを使って気品のある音をめざそうとしないのか。私の回りの人たちも孔付きの楽器に歴史的なマウスピースをつけて演奏した方が音はいいと言っている。そのほうが音が他の楽器とブレンドするし音質も派手ではなくなるからだ。

5)歴史的なマウスピースとモダンのマウスピースを使い分けすることは可能ですか?

私がモダンの楽器を教えたりモダンのオケで演奏していた頃は数年間も毎日そうやっていたが全く問題はなかった。私の生徒にもオーケストラ奏者がいて同様のことをしている。
多分人によって両方のマウスピースも吹き分けるのに支障が出てくるんだと思う、それは例えばクラリネット奏者が人によって(短いのから長いのまで)クラリネット族の楽器を吹くのに問題があったり、オーボエ奏者が人によってはイングリッシュホルンと持ち替えるのに問題があったりするのと同様だ。つまるところ、何を練習するかで何ができるかが決まると思う。

6)ナチュラルトランペットで仕事を見つけることはできますか?

可能だ。私を含めてフランスには何年も孔なしでやってて仕事をするのに何の問題もないプレーヤーたちがいる。これは指揮者の問題でもない。出てくる音が音楽的かつ確実であれば彼ら(指揮者)は満足するからだ。たいていの場合、問題はむしろ怠けていて挑戦しないトランペット奏者自身にある。

例えば古典派のレパートリーは孔なしの楽器で演奏した方がずっといい結果が得られるのは否定出来ない事実だ。音程はましだし、音質はより気品があり、かつ作曲家の意図により近い。しかしながら、孔付きで演奏している奏者たちはこのことに気がついていないか、あるいは理解しようとしていない。難しいバロックのレパートリーに比べれば古典派の曲はリスクが少ないし、孔なしの楽器を使ってみるには最適の分野だというのに。

結論として私は孔なしの楽器の演奏を学ぶことは多くの利点があると思っている。ナチュラルトランペットの奏者であれば必要になったときに3つあるいは4つ孔の楽器のフィンガリングの練習をしさえすればそれを演奏したり教えたりすることはできるけれど、普段孔つきの楽器で演奏している人にはナチュラルを演奏したり教えたりすることは不可能だ。

今後の10年間はナチュラルトランペットにとって、音楽マーケットの要請や熱狂的な過当競争の結果というよりはトランペット奏者自身の満足度の問題として盛んになっていくことを期待している。競争は、それがみんなが音楽によりよく奉仕しようという働きをする場合は結構なことだが、奏者達が流派の違いで分裂するネガティブな可能性もある。我々はただ単に市場に迎合する必要はないが、より作曲者の意図に誠実に応えようとすることで新しいアイデアを提供することはできるだろうし、それがひいては市場の好みを変えていくことにもなると思う。

ジャン=フランソワ・マドゥーフ

(以上この稿終わり)

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2008/11/06

マドゥーフ氏へのインタヴュー(その3)

【楽器とマウスピースと奏者の関係について】

楽器本体は良い楽器じゃなければだめだがこれは最近それほど問題ではなくなってきた。ベルおよび管はその方が奏者に柔軟性を与えるという理由から手作りであるべきだ。また比率やサイズ(プロポーション)はオリジナルの良い楽器のそれに拠らないといけない。私にとって音程のいい楽器というのはオクターブが純正で、五度がそれほど広くなく、第13倍音がそれほど低くないものということになるだろう。孔なしの楽器を演奏しようという人たちの多くは第11倍音と第13倍音がどうかということに気をとられがちだがもともとこれらのピッチが完璧に合う楽器というのはないと思った方がいい。

第11倍音のファとファのシャープを吹き分けることはつまるところ奏者のスキルに因るところが大きい。もし第11倍音が低ければファの音を作るのは易しくなるだろうがその分ファのシャープを出すのは難しくなる。また逆もしかりだ。ただし第13倍音の場合は問題は異なる。なぜならほとんどの場合はラの音を吹くわけで、ソのシャープを要求されることはめったにないからだ。もしこの音がそれほど低くなければかなり助かる。どんなにこのピッチがいい楽器であってもたいてい平均律より25セントくらいは低いものだ。ただどんなに第13倍音が低くても、第11倍音と同じように調整することは可能だと思う。オリジナルの楽器でラの音程がいいものであっても、そのほとんどはやはり低い。だからといって昔の上手なトランペット奏者が調子はずれで吹いていたとはとても思えないからだ。フランスの昔の本には明確にこのことが記されていて、引用すると「トランペットとホルンにおけるファとラの音程はもともと調子はずれでありそれらの音程がいいかどうかはつとに奏者の技量によっている」とのことである。

【マウスピースについて】

現存する16世紀から19世紀のマウスピースを見ると大きいものから小さいものへと変遷してきたことがわかる。これは当時描かれた絵画でも確認することが出来る。これはおそらく単なる信号ラッパから音楽用の楽器へと変遷してきたこと、さらにスライドやバルブが取り付けられるようになってきたためだと思われる。歴史的なトランペットのマウスピースが現代のそれに比べて大きい(昔のものは19mmから21mm、それに対して現代のものは16mmから17mm)のはたまたまそうだったとか適当に作られていたからとかいうわけではなく、その大きさでないと演奏出来ない音があったからだ。時代が下ってハンドストップ奏法やバルブが開発されるにつれマウスピースは小さくなった。バルブやスライドがこの楽器の技術的な問題を解決してくれるようになったので、大きいマウスピースへの需要はなくなり、余分なことは手でやることとなったのだ。

ナチュラルトランペットはモダンのバルブトランペットの約2倍の長さがあるので、論理的必然性としてそのマウスピースもモダンのよりも比率的に大きくなくてはならないだろう。ここでその詳細を論じるにはスペースが足りないが、別の論文に楽器の比率の問題が取り上げてある(Herbert Heyde, Musikinstrumentenbau, Breitkopf & Hartel, 1986)

昔のマウスピースのリムは通常平らで幅が広い。プラハには6本の銀のLeichnamschneiderトランペットがあるが、それには6つの認証マーク入りの銀のマウスピースがついている。それらのマウスピースの外見はほぼ同じなのだがリムはそれぞれの奏者のニーズに合わせて仕立ててあって、一つ一つのリムとカップはかなり異なっている。カップは金の上から銀メッキが施され、デザインはかくあるべしと納得させられる。

カップの形状もさまざまだ。これも現代のものよりも大きい。ベストの形状は、実際のところ最も単純なのだが半分丸い形のものだ。Joseph Frohlich もドイツの音大用に書いた本の中の初めの部分で同様のことを強調している。(Systematisches Unterricht, Bonn, 1811 & 1828)

カップからスロートに移る部分はほとんどのものが鋭い角度を持っている。これは音にヒス(シューッという音)を生むので現代の奏者には不評だが、これも音色を構成する一部と考えたほうがいい。バロックマウスピースの外部の複雑な装飾を削りだしできるメーカーは当然のことながら内部の旋盤も上手にできるはずなのだが、カップの内側の形状については驚くほどに単純である。ヒスについてはプレーヤーが正確に音を当てることができればかなりの程度減らすことができる。このようなスロートへ至る角度の鋭さと単純な形状のカップが作り出す抵抗をうまくコントロールして演奏する必要がある。

スロートも現代のものに比べると大きい(だいたい4.5mmから5.5mm、これに対してモダンのは3.5mmから3.8mm)。バックボアの役目はカップで作られた音を増幅することと楽器につながっていい音程を作りだすことにある。この部分はバロックトランペットにおける唯一の円錐形の部分である(対してモダンは円錐形のリードパイプを持っている)。通常より楽器の長さが長いのでバロックのマウスピースのバックボアも比率的に長くなっている。

オリジナルのマウスピースをいくつか研究し、また16世紀と17世紀に書かれた多くの絵を検討した結果、我々は特に17世紀のトランペット向けのマウスピースを新たに開発した。17世紀の楽器は18世紀のものに比べてベルとボアがかなり大きい。これと釣り合いを合わせるためには、カップの大きいマウスピースとそれに続く急激でかつ短い(10mmくらい)円錐部分、それに同じ内径でつながる(あるいは溶接されている)第1ヤードへと繋がっていく部分のバランスが重要なのだ。結果は上々だった。低音域では音は力強く、またクラリーノの高音域では鈴のようなファルセットの音色が得られた。この実績に意を強くしてさらに研究をすすめているところだ。
これらの要素、すなわちリム、カップ、スロート、バックボア、などはすべてモダンよりも大きく、これが気品のある音色を作り出す基になっている。バロックトランペットをモダンのマウスピースで吹いても多分鋭い音になってしまって、こうした音質は決して得られない。

【音を作り出す要素】

音を作り出す要素を考えてみると、奏者自身がアコースティックな楽器の一部分を構成しているといえる。つまり音の送出部分(ジェネレーター)、振動部分(ヴァイブレーター)、そして共鳴部分(レゾネーター)のすべてを奏者が担っているというとらえ方だ。

送出部分(ジェネレーター)というのはここでは空気を送り出す肺の筋肉のことを意味する。空気の圧力がバランスすることによってすべての音域において良い音色と安定した音程が得られ、また同時に音域の跳躍時の柔軟性も得ることができる。

振動部分(ヴァイブレーター)とは唇、顔の筋肉(アンブシュア)、口の内部の口腔および舌の筋肉から構成される。上下の唇のバランスはマウスピースが大きいだけにより重要になってくる。

共鳴部分(レゾネーター)はこの場合人間の体そのもののことである。現代のトランペット教育ではあまり取り上げられないし、それを活用する練習というものも開発されてはいないが、私はこれはよい音質と音程を得る為のキーポイントではないかと思っている。これを実感するには、歌手の真似をしてナチュラルトランペットを吹いてみるといい。これに気がつけばモダン楽器の奏者であれ孔付きの楽器の奏者であれ、よりいい奏者になれる。もしこのテクニックを使わないのであれば孔なしの楽器で難しいレパートリーを吹きこなすのは無理だと思う。

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2008/11/05

マドゥーフ氏へのインタヴュー(その2)

(続き)

その頃には徐々にそう難しい曲でなければ自分の楽器で正確に演奏することができるようになってきた。それでも調子はずれの音を調整するのはまた別の問題だった。第11倍音のファとファのシャープを区別するのはできたけれども第13倍音はやっかいだった。その楽器ではあまりにフラットすぎたので第14倍音(シのフラット)からずり下げることを試みてみた。これはゆっくりとしたフレーズだと使えたが早いパッセージでは問題があった。それで結局やや低いものの第13倍音を使うことにした。解決方法は楽器そのものあるいはマウスピースを改良するかしかないように思えた。

昔のマウスピースを採用するにあたって、ザルツブルグ博物館にあるマウスピースの一連のコピーを使ってみることとした。バーゼルのライナー・エッガーがコピーしてくれたこれらのマウスピースを使うとより柔軟に吹きやすくなった。中でも一番大きいサイズのマウスピースが高音域に難はあったもののベストの結果が得られた。

12年前にリヨンでドン・スミザーズに会ったことも自分のやり方に確信を持つのに大いに寄与した。彼の長い経験と研究によると当時の図版や実物からは当時は現代のものよりもずっと大きいマウスピースを使っていたというのである。これは私の意見と一致した。

私は博物館にあるマウスピースのコピーをグラハム・ニコルソン、ブルーノ・ティルツ、ギートジャン・ファン・デア・ハイデやライナー・エッガーなどのメーカーに注文した。何週間かそれらで練習しながら一つ一つ淘汰していって最終的に最良の結果が得られるものを選んだ。これが自然と大きいカップでもどの音域も吹けるアンプシュアを作るのに役立ったようだった。

やがてヨーロッパのさまざまな博物館にあるオリジナル楽器を吹く機会も増えてきた(これはエドワード・タールとロバート・バークレイのおかげだ)。今から考えるとエーエの1746年のモデルが一番良かったように思われるが、これは特段驚くことではないのかもしれない。というのも現在いろんなメーカーがその楽器をモデルにしているからだ。さきほど挙げたメーカーに本当の複製の楽器を作るように依頼をした。というのもほとんどのモデルや1990年代に出回っていた楽器は補正孔がついていたからだ。

こうした試みのなか、ロバート・バークレイの本「トランペットメーカーの芸術」に示された厳格なモラルの話にはとても動機づけられたし励まされもした。バークレイとも連絡をとるようになったし、あるいは同僚のジョエル・ラエンス、ジャイルズ・ラピン、グラハム・ニコルソンなどからの音楽的なサポートは、多くの人が使い物にならないと考えていた自分のアプローチが実を結ぶまでの精神的な支えとなった。

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2008/11/04

マドゥーフ氏へのインタヴュー(その1)

以下はHBS(ヒストリック・ブラス・ソサイエティー)のニュースレターに掲載されていたナチュラルトランペット奏者ジャン=フランソワ・マドゥーフ氏のコメント。やはり長いので数回に分けて紹介しよう。

【いかにしてナチュラルトランペットを始めたのか】

バロックトランペットに最初に興味を持ったのは1980年代のことだった。特に歴史的アプローチを復活させることはできないかとずっと考えていた。つまり1960年代から一般的になってきた補正孔を使うという方法に頼らないでトランペットを演奏するやりかただ。当時は孔を使わないでバロックトランペットを演奏するというのはいわば失われてしまったアートのように思われていた。あたかもクラリーノ(高)音域の演奏は昔のトランペットのギルド制度とともに死に絶えてしまった秘密ででもあるかのようにだ。

自分の初体験はD管の(孔なしの)騎兵隊ラッパにモダンのマウスピースをつけたものを吹いたのが初めてだったが、やがてMeinl Lauber の孔が1つついたロングタイプの楽器にBruno Tiltzのバロック用マウスピースを組み合わせで練習を続けた。こうすると11倍音と13倍音がやや楽に調整出来るようだったからだ。我々の先祖はこうやって吹いていたのだし、この楽器のためにバッハなどの偉大な音楽家が曲を作ったのだと固く信じることにした。歴史的な証拠を調べるにつれ私はますます我々の先祖とできるだけ同じアプローチをすることで同様の結果にたどり着くだろうと確信した。さらに、補正孔はこの楽器の持つ性質を変えてしまって他の楽器と溶け合う音というよりはむしろ他を支配する音になるような気がした。

このように自分の考えを実践しながらも3つ孔の楽器もさらっていた。その当時は自分はジャン=ピエール・カニヤックに習っていて、彼は3つ孔を使う主義だったからだ。「だって古楽界ではみんなが(このタイプを)使っているから」というのがその理由だった。このシステムを習って彼と一緒にロ短調ミサを吹くのに確か3週間くらいしかかからなかっただろう。その後は3つ孔は全く使っていない。

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2008/11/02

秋晴れ

昨日はいい天気だった。
珍しく家の中の掃除。
普段こまめにやればいいんだろうが、なまけものなもんで。
とりあえず窓ふきから始めたら午後でかける時間まで止まらなくなった。

「父、掃除しない?」
娘の言葉がきっかけ。
親を動かすのがうまいよ、この娘は。

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2008/11/01

「日日是好日」

森下典子著の 掲題の本を読む(新潮文庫)。

副題は ー「お茶」が教えてくれた15のしあわせー

著者は「前世への冒険」(「デジデリオ」改題)で僕には馴染みのある人。本屋でこの本が平積みになっているのを見つけて、「ふーん、デジデリオの人が本出してるんだ、どれどれ」と思ってレジに持って行くことにした。

副題にあるとおりお茶の本でありながらお茶のことを知らなくても深く楽しめる内容だった。随所に「なるほど、そういうことなんだ」と目からウロコのことが出てくる。

章立てを見るだけでそれが伝わると思うので書いてみよう。

序 章 茶人という生きもの
第1章 「自分は何も知らない」ということを知る
第2章 頭で考えようとしないこと
第3章 「今」に気持ちを集中すること
第4章 見て感じること
第5章 たくさんの「本物」を見ること
第6章 季節を味わうこと
第7章 五感で自然とつながること
第8章 今、ここにいること
第9章 自然に身を任せ、時を過ごすこと
第10章 このままでよい、ということ
第11章 別れは必ずやってくること
第12章 自分の内側に耳をすますこと
第13章 雨の日は、雨を聴くこと
第14章 成長を待つこと
第15章 長い目で今を生きること


お茶に興味がなくても面白く読めるし、いろいろと考えさせられる内容を持った深い本だと思う。お奨めです。

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