異なる心象風景
主に電車で移動する人と車で移動する人とでは地図の捉え方が違うと思う。つまり前者は鉄道の路線に沿って位置関係を把握するのに対し後者は道路に沿っているからだ。例えば高円寺から江古田を例にとると、車派は「あ、環七で1本だからすぐだね」と思うだろうが、これに対して電車派は瞬時に、中央線で新宿→乗り換え山手線池袋→西武線江古田のラインが想起されてしまい、「ひょっとして近いかもしれないけど時間かかって遠そうだな」と思ってしまう。あるいは車で移動した時に「あれ、こんなに近かったのか」と思うだろう。これは地理的に江古田が高円寺の北に位置していると頭で理解している場合であってもそうだ。言ってみれば鉄道路線図に沿って脳内地図が広がっているという感覚だ。
ふと、異なる作曲家のマニフィカト(シュッツ、バッハそしてモンテヴェルディ)を立て続けに聴いて同じことを思った。
自分はこれらの曲に器楽でしか接していないので音楽的要素ばかりが耳に残っていて、この3つを全然別ものとして聴いている。しかしながら、ひょっとして歌の人たちの心象風景は全く違うのではないか?
ミサ曲やマニフィカトなどのラテンを原典とする宗教曲では歌われる歌詞は基本的に全く同一である。つまり同一の歌詞に古来いろんな作曲家がその人なりの音楽をつけたというわけで、
Magnificat anima mea Dominum (私の魂は主をあがめ)に始まって
Et exultavit spiritus meus (私の霊は喜びたたえる)と続き
Gloria Patri et Filio(父と子と精霊に栄光あれ)などなどを挟みながら
Sicut erat in principio (はじめにそうであったように、)で終わる
この一連の歌詞は順番も文言も同じなのだ。
つまり、歌を担当している場合、いやでも同じことを歌う訳で、そうすると歌詞優先で脳内地図ができあがるんだろうか。例えば「バッハのFecit potentiamはわくわくして好きだけど、モンテヴェルディのは歌の部分が地味で面白くない」みたいな感じで。あるいはモンテヴェルディのGloria Patri のソロの感覚を援用してバッハのそれを歌ってみるとか。ああ、今まで考えたこともなかったな、そういうふうに縦横につなげるなんて。
冒頭の例で考えると当然のことながら車で移動する人は電車も利用する訳で、地図情報がより細かくかつ正確にインプットされているに違いない。
ここでの歌い手はおそらく車派、器楽オンリーは電車派と考えると、僕らはその分地図が見えてないわけで、ハンディキャップを負っていると考えた方が良さそうだ。歌詞を覚えて脳内シナプスを増やす必要があるね(だからOPTの練習の時に指揮者に、オケであっても歌詞が頭に入っているのは当たり前だろ、とくどく注意される訳だね)
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