コンサート雑感
土曜日午後は四谷のイグナチオ教会にアントネッロの演奏を聴きに出かけた。
イグナチオは僕の大学指導教官だった田内先生の葬儀が執り行われた場所でもある。そのときは旧聖堂だった。建て換わってからも何度か中に入ったことはあるけど、ちゃんとしたコンサートは初めて。音響という面では申し分ない場所だね。明るいところはリエクサ教会(フィンランド)を、楕円になっているところは同じくヘルシンキのテンペリアウキオ教会を思い起こさせる。
今回は長崎県と上智大学の連携講座の一環で前半が上智の史学科の先生と作家三浦暁子さんとのトークディスカッション、後半がアントネッロによるコンサートという構成だ。コンサートのテーマは「ローマを見た少年 中浦ジュリアン ー天正遣欧使節の音楽ー」というもの。
コンサートの中身については、CDにもなってまとまっているし、今まで折に触れて生で聴いたりしたものや、あるいはコンサートに自分が参加したものもあるし、そもそも大分や東京でのレコーディングにも立ち会ったりしてそれこそ何度も聴かせていただいているから、そのすばらしさや完成度については言うことはないのだけれど、コンサートを聴き進むにつれて二つばかり感じたことがあった。
一つはこのプログラムのテーマである、遣欧使という当時の少年の視点に立っての西洋音楽という切り口。長年アントネッロが追求して来たもろもろのことがそこには凝縮されて詰まっているんだけど(それをここで詳説すると長くなるので省く)、この音楽(というかプログラム)は日本人じゃなきゃ丸ごと味わえないだろうなという確信を持ったということだ。濱田さんがコンサートの中で解説したように、当時セミナリオで西洋音楽を勉強した少年達にとっては、かなりの水準まで自分たちのものにしてしまった西洋音楽と、自分たちのオリジンである日本人としての血(それは民謡だったり)が混然としていたはず。だからローマやスペインでも(向こうの人たちは驚嘆したけど)彼らにとっては音楽自体は慣れ親しんだものだったに違いない。それは言ってみれば現代にヨーロッパの音大へ留学している人たちと音楽面では同じ境遇なのかもしれない。
先日の福岡古楽音楽祭のレセプションでシギスヴァルト・クイケンが「昔はヨーロッパに勉強にくる日本の学生がなぜこんなに我々の音楽を知っているのか、なぜ日本の音楽をやらないのか、不思議だったけど、長年付き合ったり日本に来たりしてみて、そうか、日本のクラシック好きの若者にとってはヨーロッパの人たちと環境が変わらないんだ、いやむしろこちらの方が純粋な形で愛好家が育っているんだと理解しました」という旨のコメントをしていたけれど、それに通じるものがあるんだと思う。
日本人に西洋音楽が分かるか(できるか)とか日本人としてのアイデンティティーはとか、あの高名な指揮者のように大上段で議論するような必要はないんじゃなかろうか。
それで西洋音楽の部分はいいとして、コンサートには少年の日本に対する望郷の念などが挿話のように入る。ここの部分は勉強うんぬんじゃないところ。丸ごと楽しめるのは日本人だから、と先に書いたのはそのためだ。しかも二つの世界を全く切り離して対比するのではなく、似ている部分を取り出してきて愛でる、その姿勢がじわっと感動を呼ぶわけで、そこに聴いていてうるうるしてしまう要素があるんだろう。
ここまで書きながらひょっとしてこれは濱田さんが自身を重ねて追求しているテーマなのかなとも思ってしまった。
さて、長くなったのでもう一つは別の機会にでも書くことにしよう。
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