形見
四十九日のときに形見分けだがといって長兄から父の使っていた腕時計をもらった。僕が81年のバレンタインの初めての海外演奏旅行のときにおみやげで買って帰ったオメガ。おみやげとは言いつつも実際は父のリクエストだったし、確かそれ用の餞別までもらったような気がする。
帰国ののち帰省して直接手渡すほどの金銭的余裕がなかった僕はこの時計を実家に郵送したのだった。
兄がくれた時計のケースにはそのとき僕が添えた手紙まで小さく折り畳んで入っていた。まったく物持ちと整理のいい父らしい几帳面さだ。今とたいして変わらない僕の文字と、厳格な父に対しての(今思えば)不必要に丁寧な言葉使い。出した当人はその存在すらすっかり忘れていたのに。
父がこの時計を愛用していてくれたのは良く知っている。剣道で鍛えていた父の太い腕にはこの大きめのサイズの時計はぴったりだった。 最初についていたワニ皮のバンドは数年でダメになって、それからは時計屋さんで金属製のに替えてもらっていたようだ。
高2で下宿生活を始めて以来、短い実家での暮らしは少しはあったものの基本的には親元を離れた生活をしてきた。たまに帰省しても「元気か」「うん、なんとかやってる」くらいの表面的な会話しかしてなかった。そんな自分よりこの時計はずっと父のそばにいて時を刻んでいたということになる。時計を見ながら時折めったに実家に顔を見せない三男のことを思ったりしていたのだろうか。
形見っていうのはほろ苦いものだ。
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