翻訳について思うこと
最初にこの文章を読んで欲しい。
==引用=====================
古来の教会音楽を踏まえたミサ・テキストへの曲づけは、バッハにとって、カンタータの作曲とは根本的に異なる何かを意味した。なぜなら、カンタータにおいてはつねに、新しい詩文が作曲の対象となったからである。眼前に置かれたテキストに音楽をつける最初の人がバッハであることも多ければ、唯一の人がバッハ、ということも珍しくなかった。その種の、いわば処女を拓くような作曲は、何世紀にもわたって途切れない歴史をもつミサ曲の分野では、とうてい不可能であった。バッハは、多声のミサ曲、その音楽史上のあまたの実例に若い頃から親しんでいたため、伝統から自由になることはできなかった。バッハは逆に、伝統を極める道を選ぶ。彼の声楽曲の中で、様式の種類や形式、作曲技巧が、過去から同時代にわたってこれほどの広がりを示している作品は、<ロ短調ミサ曲>をおいて他にない。バッハが既存の範例(自作から取られたものも含む)と取り組み、それをさらに発展させたことにより、<ロ短調ミサ曲>には最初から、唯一無二の作品となるべき見通しが与えられていた。
=クリストフ・ヴォルフ「バッハ ロ短調ミサ曲」より=
これをすらすらと読んで一回で何を論じているか理解する人がどれくらいいるのだろうか?先の日記の文章と比べて欲しい。もちろん片や気の凝らないエッセイ、こちらは学術研究の文章という元々の目的の違いはある。それにしても、分かりづらい。読み手の前に「どうだ、理解できるものならしてみろ」みたいに立ちはだかっているように見える。自分にはこれは如何にも悪文ではないかと思えるのだが、いかがか。
訳者は名は秘すがバッハ研究を専門とする音楽学の学者だ。原文はドイツ語、原作者の文章に余分な解説をつけず正確に逐次訳するとこうなるのだろう。ただ、原語にアクセスできない日本の読者のために本を紹介する際に、文章の正確さと分かり易さとどちらを優先すべきかと比較したら僕は後者じゃないかと思うのだけれど。
思うにこれは翻訳者の職業の性格によるのかもしれない。小川さんは演奏家だから人前で説得力のある演奏をするのが仕事。翻訳も無意識のうちにその延長線上でなされたのではなかろうか。それは顧客に対するサービス精神と言い換えられるかもしれない。それと、彼女は音楽家だからこそ文章のリズムとか美しさとかに敏感だからなのだろう。いや、きっとそうに違いないと僕は確信してしまった。それに比べて音楽学者は、という好例みたいに思える。研究者向けの書籍ならそれでもいいんだろうけどね。
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コメント
たまたまモンテヴェルディのことを調べていてこの記事を読みました。翻訳の件、まったく同感です。毎日が日曜日(死語?)になってから、オペラや歌曲の歌詞をたまに辞書を引いて見ると、昔のLPやCDの対訳がなぜこのようになるの?ということがしばしばあります(故人で名の知れた人も多い)。文学でも同じですよね、翻訳はただ訳せば良いというものではないですから。このところ久しぶりにモンテヴェルディを集中的に聴いている単なるリスナーですが、これから貴サイトを拝見していきます。
投稿: TG | 2012/08/16 18:04