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2012/07/08

「静けさの中から」

OUT OF SILENCE - A Pianist's Yearbook
「静けさの中から」ーピアニストの四季

スーザン・トムズ著 小川典子訳(春秋社)

仕事帰りに立ち寄ったメトロ構内の本屋でなにげなく手に取った本にちょっと心惹かれた。普段だったらピアニストのエッセイ本はわざわざ購入しない。それは例の距離感に依るものだと思う。例えば茂木さんとか岩城さんの本とかと違って、なんか共感するところが少ないんじゃないかと危惧して手に取ることもしない。いわば食わず嫌いなんだと思う。

ところがこの本はちょっと違った。というのは翻訳に「小川典子」という著名なピアニストの名前があったからだ。イギリス在住で国際的に活躍するピアニスト(BISからCDも多数出ている)の小川さんが、わざわざその忙しい演奏活動の間に翻訳してまで読んでもらいたいと思ったのには訳があるんじゃないかと感じられたのだ。

そしてその期待は予想以上に報われることとなった。

著者のスーザン・トムズはソロピアニストとして、またフロレスタン・トリオのメンバーとして世界の舞台で活躍する人。文筆活動も盛んに行っていてこの本は3冊目の著書ということらしい。プロの音楽家が日頃考えていること、音楽のこと、演奏会、レコーディング、その他もろもろの話題が軽妙かつ的確な文体で綴られている。それらはもともとは彼女のブログにアップされた記事のようだ。ブログはこちら

本の副題にある通り、四季折々、1月から12月までの章に分かれて全部で120近くのエッセイが収められている。ピアニストじゃなくてもどれも興味深い内容だ。ちょっと愉快なエピソードからプロとしての深刻な悩みの吐露まで、途中から気に入ったものに印をつけていたら20以上にもなった。その中の一つ、短いのを選んで引用・紹介してみよう。

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「細かいのはどちら?」

 声楽家として生計を立てることの難しさに疲れ果て、学校へ通いなおし、銀行員になった友人がいる。彼は新しい就職先の銀行に出勤したとき、同僚からこんな質問をされたそうだ。「大変だろうねえ。ヘンな気持ちがするんじゃない?好きなように自由でいられる職業から、こんなに精密な作業が必要な仕事に就くっていうのは」。この素晴らしい友人、元・声楽家は小気味良く答えた。この、まことにすばらしい返答を聞いてほしい。「いやいや、それはむしろ逆だねぇ。音楽は、銀行に勤めることよりも、ずーっと細かくて精密や作業だよ」。
 一瞬のうちに立場を逆転させてしまったこの答えに、心から拍手を送りたい。これが、まったく自然に口から出たというのだから、最高だ。
 「だって、本当じゃないか」。話を聞いて笑いの止まらない私に、彼は真顔で言った。「銀行での僕は、数字を追ってばかりいるわけじゃない。もちろん、ぜったいに間違いが許されない場面は時々あるよ。でも音楽の場合は、常に、ずっと、絶対に、間違いが許されないじゃないか」。  

(引用注:24ページから25ページまで。最後の「常に、ずっと、絶対に」のところには強調の点が振ってある)
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中身が面白いこともさることながら、ここでは翻訳が卓越していることも強調しておきたい。読者が理解しやすく、かつこなれた日本語にするために言葉を継ぎ足したり、省略したり、という細かくて丁寧な作業が行われたであろうことは疑いの余地がない。これは、きっと同業の小川さんでなければできない仕事だったんじゃないかと思う。
そもそも本のタイトル、Yearbook を「四季」と訳しているところからしてセンスの良さが伺えるというものだ。「年鑑」とか訳されちゃうと目もあてられないからね。
いやあ、お勧めの本です。

翻訳については他にも思うところあるので、それはまた次の日記で。

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