« 視力矯正 | トップページ | 公開:レクチャーコンサート »

2016/04/04

ご報告(長文です)

今年の1月末に60歳の還暦を迎えた。そして先月末をもって東京海上アセットマネジメント株式会社を定年退職することとなった。

1979年に大学を卒業し社会人となってから下記の通り転職を経ながらも通算すると37年間サラリーマンとして奉職してきた。

 1979-1985 (株)東食
 1985-1986 大和証券資金部
 1987-1988 Daiwa Europe Bank, London
 1989-1997 大和投信
 1997-2005 シュローダー投信投資顧問
 2005-2016 東京海上アセットマネジメント

 振り返ってみれば、最初の2年間こそは人事の仕事だったが、81年9月に人事異動で財務部為替課に配属されて以来、実に35年間もディーラー/トレーダーとして「売った買った」の相場の世界で暮らして行くとは当時全く予想もしていなかったことだった。

 相場に関して言えば、プラザ合意('85)、ブラックマンデー('87)、欧州通貨危機('92)、EUR誕生('99)、リーマンショック('08)など、いろんな局面に第一線で接したのは得難い体験だった。とりわけプラザ合意以降の急激な円高局面では、会社に何日も泊まり込みしながらNY市場が終わる翌日朝まで相場を追っかけたものだ。もうあんなすごい相場は生きている間に二度と見ることはないだろう。

 また社会的な事件にも思い出深いものが多々ある。地下鉄サリン事件(95/3 この時は茅場町駅にほど近いオフィスで朝のミーティングの最中で、外の騒動に何が起きたのかわからず大騒ぎとなった)、山一証券の廃業('97/11 その数週間前に山一との取引は全部引き上げよとの指令がロンドンの本社からあり、その時はまさか山一が逝くとは思ってもみなかった)、9.11同時多発テロ('01 翌日早朝に緊急ミーティングがあり社内中すごい緊張状態だった)、そして東日本大震災(このときは東証が終わる14分前だったのでとりあえず取引を終了させることとその後の業務の継続をどうするかが喫緊の課題だった)などなど。

 89年に大和投信に移って資産運用業務(いわゆるバイサイド)に従事してから数えても27年の長きになった。思えば先渡相場レート、クロス円レートばかりでなく移動平均やRSIなどのテクニカル指標なども電卓で計算しながら電話発注していた時代から、電子接続でアルゴリズムで自動執行を行う今に至るまで、技術革新の変化は目を見張るものがある。なにしろ相場を始めた頃はコンピューターと言えば電算機室に納まった大型システムのことで、パソコンもエクセルもなければ日本語ワープロもなく、電子メールやインターネットという概念すら想像がつかなかったわけで。

 携わった仕事で悔いが残るのは、大和投信時代に運用にあたった為替クロスヘッジの外債ファンドの成績が振るわず、受益者の期待に応えられなかったこと。欧州通貨危機のあおりをもろに喰らってしまった。自分が中央銀行寄りでソロスを敵に回したのが良くなかった。米国モーゲージ債券ファンドも当初の目論みからは遠い結果に終わってしまったけれど、それでも自分のところのは結構頑張った方だと思う(競合他社比)。ともあれ運用の仕事はハードだし難しかった。枕元にはポケットロイターを置いて夜中にも逐次海外の相場状況をチェックし、一番睡眠時間が短かった時期だ。自分のポジションに不利な出来事があると、「今日は僕はどんな悪い事をしたんだろうか、なんの報いなのか」と非科学的なことばかり考えていたし。

 一方で面白かったのは、やはり大和投信時代に為替のシステムヘッジを改善するためにテクニカル分析のあれこれを研究(中にはアストロロジーまで)し、パフォーマンスの向上につなげた事。それからシュローダー時代のトレーディングシステム導入の経験を活かし、東京海上アセットでのトレーディングシステムをほぼ理想に近いものに構築できたことだ。また2009年から早稲田ビジネスアカデミーでファンドマネジメント講座の講師を務めさせてもらったことも張り合いがあっていい経験だった。

 東京銀行や三和銀行、第一勧銀など銀行の為替ディーラーとの付き合いも面白かった。シティバンクにはとてもお世話になったし、その他の外銀のディーラーも個性的な人が多くて楽しく、また勉強になった。でも銀行は一番統合・再編があった業種で、名前が残っていない銀行も多数あるし、そうした旧知の人たちが一人また一人とマーケットから離れていってしまったのは寂しいことだった。他方、この数年は同業他社のトレーディングヘッドとの情報交換などの交流も有意義だった。

 職場での上司、先輩、同僚、部下にも恵まれたと思う。東食では最初が人事部だっただけに、人を育てるとはどういうことかということを(とりわけO部長から)叩き込まれたし、為替に移ってからはM先輩の厳しい指導のもと、それこそ「売った買った」の厳しさを身を以て学んだ。為替課は特に東食を出て外に活躍の場を見いだしていった先輩も多かった。そうした面では東食は今は無くなってしまったけれど、優秀な人材が多数在籍していたと思う。大和時代は個性的な人が多かった。優秀な人もそうでない人も。ロンドンにいたのは2年間だけだったが、イギリス人たちとも仲良くしてずいぶんかわいがってもらった。シュローダー、東京海上では部を率いる立場だったのだが、部下は皆トレーダーとして意識が高く、そういう意味では緊張感を保ちながら反面楽もさせてもらった。

 そんなこんなで、長く相場に関わってきたにもかかわらず、かって世間を騒がせた一勧シンガポール('82)や大和銀行ニューヨーク('95)のような事件にも、みずほ証券の誤発注('05)のような事故にも巻き込まれることなく、無事にサラリーマントレーダー生活を卒業させてもらうことができたわけだ。

 Once a dealer, always a dealer という言葉は外銀に勤めていた大先輩ディーラーから教えてもらった言葉だが、ディーラー稼業は先月で終止符を打つこととした。これからは勤め人はやめて違うことを生業にしようと思っている。

|

« 視力矯正 | トップページ | 公開:レクチャーコンサート »

仕事関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 視力矯正 | トップページ | 公開:レクチャーコンサート »