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2016/11/08

「させてもらう」感覚

フィギュアスケート男子の宇野昌磨。羽生結弦に続く日本の男子フィギュアスケート界のホープ、今まだ18歳の若さだ。
先月に開かれたグランプリシリーズアメリカ大会でショート、フリーともに1位の得点で見事優勝した。
このフリーの演技は素晴らしかったが、やっぱりパーフェクトというのは難しいと見え、4回転ジャンプを3つとも見事に決めたあと、後半部分でトリプルアクセル(3回転半)のときにちょっと着氷に失敗、ジャッジから回転不足を取られてしまった。

そのフリーを滑り終わったあとのテレビの取材に対しては次のようにコメントしていた。

TV:「お疲れ様でした。素晴らしいスケートでした。いかがでしたか。」
宇:「いやぁ、なかなかノーミス(の演技)はさせてもらえないです。」

ちょっと耳に残る言い回しだ。
「なかなかノーミス(の演技)ができない」ではなく「させてもらえない」というのが。これは明らかにジャッジに言ったわけではない。


それでふと次のことを思った。

話はスケートとは全く関係なく、音楽のことだ。
普段の練習もそうだけれど、特にコンサートに向けて練習する際に、それが難しい曲であるほど、あるいは大事なコンサートであるほど、練習にはそれなりの労力と時間をかけることになる。練習を重ねてもどうしてもできない部分とかがあるのはしょうがないけれど、ともかく自分ができる最大限の努力をする。

そうして迎えた本番ではどうするか、というと、ステージに上がる前に「やることはやった。あとはいい演奏ができますように。ミューズの神(音楽をつかさどる神)が降りてきてくれますように」と祈るわけだ。
本番のときに練習の成果が出せるかどうか、いい演奏ができるかどうか、はあらかじめわからない。その時の自分のコンディションにもよるし、人とのコラボレーションの具合にもよるし、会場の雰囲気にもよる。
そして結果としては、ちょっと悔いの残るコンサートだったり、それなりの出来だったりするのだが、たまに、ほんとにたまにふっと持てるもの全部とかそれ以上とかがだせる本番があったりする。
そういうとき、「あ、ミューズの神が祝福してくれたんだな」と思う。

そこで話が戻る。

僕らのレベルと世界レベルで戦うアスリートとは雲泥の差があるので比較はおこがましいのは承知の上だが、宇野選手の思っていたこともそういうことなのではないかと。

4回転ジャンプもトリプルアクセルもそれこそ数えきれないくらい跳んで練習し、完成度を上げているはず。普通に跳べば難なく成功するくらいに磨き上げてあるとと思う。
ただ、大きな大会の本番で観衆が見守る中、これを決めないと勝てないというプレッシャーと闘いながら難しいジャンプを確実に成功させるには練習の積み重ねだけでは成就しない部分があるということだろう。
それこそフィギュアスケートの神様がその人の努力に対してプレゼントしてくれるということなのではなかろうか。

そういう気持ちが宇野選手をして「なかなかノーミスをさせてもらえない」と言わせたのではないかと思ったのだった。

先週末のロシア大会ではスペインのハビエル・フェルナンデス選手に逆転優勝をされてしまったものの、アメリカ大会に続いての高得点で見事銀メダルを手にし、6名しか出場できないグランプリファイナルの切符をいち早く手にしたのも決して偶然ではないと思う。

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